« 益子焼(ましこやき)とは | メイン | 日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はインド洋に »

GHQ最高司令官

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)が連合軍代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちにアメリカを中心とする連合軍の占領下に入った。マッカーサーは1945年8月30日に専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着、以後1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。1945年9月27日には報道機関に掲載のため昭和天皇と会見写真を撮影した。この写真ではリラックスしている大男のマッカーサーと、緊張して直立不動の小柄な昭和天皇が写され、当時の国民にショックを与えた。これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。

占領当時のマッカーサーはフリーメイソンのフィリピン・グランドロッジに所属しており、32位階の地位にあったとされる[4]。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。
伝統芸能
闘牛
フライングディスク
アルバイト
バトントワリング
エネルギー
スキューバダイビング
百日咳
サッカー
離乳食
中国のお茶の歴史
人体と細胞
消化器系事典
ステキな星座
華麗な花嫁
夏に咲く花情報
癒しの国
日本のお茶
けの付く言葉
ワインカラー

また、東條英機が横浜の野戦病院(現・横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという[5]。

マッカーサーは、日本統治を、「政治家、経済学者、産業人、神学者」として行いたいという信条があった。

大統領選
しかし占領期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいた。しかし現役軍人は大統領になれないため、早く占領行政を終わらせ凱旋帰国を望んでいた。そのため、1947年から彼はたびたび、日本の占領統治は非常にうまく行っている、日本が軍事国家になる心配はない、などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。

1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞は、彼が大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙で彼は共和党候補として登録された。彼を支持している人物には、シカゴ・トリビューン紙のロバート・マコーミック社主や、やはり新聞のランドルフ・ハースト社主がいた。ニューヨーク・タイムズ紙も彼が有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。

しかし、大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。マッカーサーと彼は、戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。

About

2009年06月10日 07:30に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「益子焼(ましこやき)とは」です。

次の投稿は「日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はインド洋に」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35